▼河岸段丘の豊かな水のまち

 藩政期から明治にかけての仙台城下には四ツ谷用水が貫流し、その本流が八幡を経て北六番丁を流れ梅田川に注いでいました。八幡の東西にはそれぞれへくり沢と鶏沢が流れ、共に深い沢であることから城下への敵の進入を防ぐ役割を果たしていたと考えられます。周囲を広瀬川、四ツ谷用水、へくり沢、鶏沢で囲われた八幡は出入口も限られ、地形的に独立したまちでした。
 また、大崎八幡宮の御神酒となる天賞は、現在でも敷地内の井戸水でつくられ、さらに、仙台三清水の1つに山上清水が挙げられていることからも、水との関わりが深いまちだということがわかります。

<藩政期における四ツ谷用水のネットワーク>

 

<藩政期における八幡の水のネットワーク>

▼八幡を流れる(流れていた)水路
▽四ツ谷用水
 元和年間(1615〜24)に郷六から広瀬川の水を引き梅田川まで注ぐ本流を掘削し、城下の発展とともに段丘を利用して城下に導入された用水です。下水や消防用水、地下水涵養による井戸水の提供など往時の人々の生活を支えていました。明治32年に開始された下水道工事に伴い、昭和10年頃までには次々とその姿を消し、現在では本流が工業用水道として利用されています。
▽鶏沢
 昔、鶏橋で毎晩鶏が来て縁起の悪い宵鳴きをしていました。それが大崎八幡宮の絵馬の鶏とわかり、網を張って絵馬堂に閉じこめたが、間もなく大洪水が起こり家が流れ人が死にました。宵鳴きはその前兆であったことに由来し、鶏沢、鶏橋と呼ばれるようになりました。また、鶏沢が滝のように広瀬川へ落下することに由来し「滝前丁」が名付けられました。
▽へくり沢
 巴川によってつくられたへくり沢により往来が困難だったが、寛永20年(1643)に底樋を据え、土手を築き橋を渡しました。これが土橋で、土橋に至る通ということで「土橋通」が名付けられました。また、‘へくる’というのは谷のへりをぬって通過することで、土橋ができるまで角五郎丁方面からここをへくって土橋通へ出ていたようです。
<現在の四ツ谷用水>
一部は遊歩道
<広瀬川へ注ぐ鶏沢>
<現在のへくり沢>
住宅が建並ぶ
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