▼藩政期の町割り

 藩政中期の八幡は、北から地形に沿って門前町、武家屋敷、大身の足軽屋敷が置かれ、竜宝寺の東には仙台築城に携わった石工が住む職人町があり、混在した土地利用がなされていました。また、当時広瀬川が流れていた河川敷は、藩政後期になると練兵場が設置され、以降、終戦まで軍用地として使われてきました。
 中心部からのアクセスは、へくり沢に阻まれて直線ルートが無く、北六番丁から石切町を経て八幡に入っていたようです。

<昭和27年の街路構成と町界>

※現代の都市計画図に「仙台市街詳細図」(S27)を重ね合わせて作成
▼市電導入による変化
 仙台では昭和45年に住居表示が実施(一部未実施)されるまで、町名に藩政期から呼ばれていた町名や通名が用いられ、町界は概ね藩政期の土地利用に従っていました。八幡も例外に漏れず、門前町を八幡町、武家屋敷を中島丁、足軽屋敷を北五十人町や角五郎丁と呼んでいました。
 藩政期には遠回りをしていた中心部からのアクセスも、明治時代に北三番丁が真直ぐ延び、昭和16年の市電八幡線開通と同時に国道48号(北四番丁)がつなげられました。
<藩制中期(1786頃)の街路構成と土地利用>

※現代の都市計画図に「仙台城下絵図」(1786)を重ね合わせて作成
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